ご存知の方もありましょうが、私の所属する一門「真山一門」では、三味線の浪曲をする演者は私一人でして…。では他の方はどうやって演じているかといいますと…
全編オーケストラ音源での「演歌浪曲」
そうなのです、ちょっと特殊な浪曲をしておりまして…。ここではその「演歌浪曲と真山一郎」そして「真山浪曲」とはという所を書いていきたいと思います。
真山一郎
ここからは大師匠初代真山一郎について。1929年山口県下松市出身。父親が浪曲師の世話をしていた関係から大師匠(以下先生とします)も五歳の頃に寄席で佐渡情話を読んだという…。1947年華井新に入門して華井満を名乗ります。
この華井新は元歌舞伎役者(市川小祐という名で女形だったとのこと)→剣戟→浪曲と転身(京山華千代に入門)された方で、芝居で鍛えた所作に弟子一同が駆使する照明、哀愁のある節で昭和20年代〜30年代に人気を博したそうです(実際に番付では横綱になってます)
入門して天性の美声で人気を博した先生は後に華井新十郎と改名し二枚看板となりました。早くから師匠とは違うオリジナルの読み物や芸風を追求した結果、美声を活かした「歌謡浪曲」に目をつけます。次第に心は歌謡曲へと動きましたが、華井新はこれを許さず。こうなったらと先生は行動に出ました。なんと極秘に歌謡曲を吹き込んだのです。
その第1枚目が
華井 新(真山 一郎の師)
内緒で御座る@日本マーキュリー
そのまんまという(笑)。
しかしこれがすぐにバレてしまい一時破門。のちに解消されますが「ピンチをチャンスに」と東京で本格的に歌謡曲修行を始め1957年に真山一郎と改名。1961年にお馴染みの「刃傷松の廊下•番場の忠太郎」で大ヒットを飛ばします。1967年に浪曲界に復帰。浪曲に主題歌や歌謡節を入れた「歌謡浪曲」で大衆を沸かせ、1971年「日本の母」で浪曲として異例の20万枚を売り上げ、まさに真山一郎旋風を巻き起こしました。
そんな真山一郎を支えていたのが曲師•東家菊栄師(19〜2000)の存在でした。元は三世吉田奈良丸師を始め重厚な奈良丸節の三味線として名を馳せた師匠が1968年より13年間真山一郎の相三味線としてついたのです。
しかし高齢の為1983年に引退を余儀なくされます。これに困った先生、片腕をもがれたような思いだったかと。しかしここでは諦めません。いっそのこと全編オーケストラ演奏の歌謡浪曲を語ろう。これぞ歌謡浪曲の完成だと思い立ち、さっそく作り始めたのでした。 この時初代真山一郎五十五歳。
苦労の末見事に完成。他の歌謡浪曲との差別化を図って自ら「演歌浪曲」と命名。浪曲独特のメロディを採譜し、私財を投げうってオーケストラ演奏のカラオケを作りこれに沿って舞台で演じるようになりました。
従来浪曲は決まり事のある中わりと自由に演じられる芸能ですが、この演歌浪曲は音源を使用する為、自由が利かなくなるという恐ろしい手法なのです。陰で音源再生のボタンを押すオペレーターも毎回ヒヤヒヤな舞台です。
1984年頃から始め、85年から2010年に引退するまで演歌浪曲ひとすじに歩み、実に33作も発表しました。ピンチをチャンスにの連続で幾度となく現れる困難を何度も乗り越え「真山一郎の浪曲」として完成したのだと思います。
さて、私が入門したのが2010年、この演歌浪曲に憧れて入門しました。「真山一門は三味線浪曲は禁止」とほのかに伺ってたのですが、先生に初めてお目にかかった時
「わしの音は全部使ったらいい! しかし、いい三味線があったらそっちでやってもいい!まぁ居らんやろけど」
と。
えっ、そうなの…?それは知らんかったと。
しかし真山の人間なので修行中は演歌浪曲ひとすじでした。
そして修行もなんとか済んで、ひとりでじっと考えていた時に…。
「先生は時代に合わせた浪曲の手法として演歌浪曲を取り入れたのではないか? 本来の浪曲としての形、一人一芸という意味では僕も自分自身の浪曲を命懸けで作らなければならないのではないか」
変に演目だけを継承するのではなく
「何があっても立ち上がる精神」こそ実は初代真山一郎の浪曲であり、本当の浪曲なのじゃないかと。三味線も沢村さくらさんという人がいるじゃないか! 居るならやっていいんだからやろうじゃないか!
という事で現在に至ったわけです。
確かに形は「演歌浪曲」ではありませんが、僕がやってる浪曲は「真山一郎の浪曲精神」である事は間違いないと、そこは胸を張って言える事だと思います。